SSブログ

【雁屋哲氏に、何が何でも、熊澤天皇の実録漫画(本)を上梓して貰(もら)わねば!】歴史の忘却の彼方に埋もれさせておくには惜(お)しいことでの、裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への否定さえも、のうのうと飄々と公然と喝破し続けていた熊澤天皇の存在そのものや数々の“奇行”(足跡)の実録の漫画(本)を、美食(グルメ)漫画(本)のみならず、『マンガ日本人と天皇』や『蝙蝠を撃て!』などの社会派漫画(本)も上梓されている雁屋哲氏が上梓されるように要望することを、何が何でも、多くの人々にやって貰わねば!? [一億総皇族化で、天皇就任者も選挙で選出!]

 
熊沢寛道https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)は日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父熊沢大然(くまざわ ひろしか)に「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育ち、その父の死後、熊沢は南朝第118代天皇としてひそかに即位したという。1920年(大正9年)から父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰など)に送り続けていた。
犬丸勝子と立国党(不正選挙NO)https://twitter.com/inumaru19明治天皇は大室寅之祐(依然は寅吉)?田布施出身は本当?謎を追って。その1(どんなとこ?)
 2014/03/09 に公開https://www.youtube.com/watch?v=VnEYC0jyVqE
犬丸勝子と立国党(不正選挙NO)https://twitter.com/inumaru19第2弾 明治天皇(大室寅之祐=寅吉) 山口県田布施出身を追った。そこで見たのが「岸・佐藤兄弟宰相と安倍首相」とは~!
 2014/03/30 に公開https://www.youtube.com/watch?v=71PsJlz5SEs
ワールドフォーラム 真実が未来を拓くhttps://twitter.com/worldforumjp【全編】佐宗邦皇代表「歴史的重大事件の裏に隠された驚くべき真相」 ワールドフォーラム特別講演[0:12:30~0:37:40]
 2011/04/22 に公開https://www.youtube.com/watch?v=Xk5oLfYjg9k
 
 歴史の忘却の彼方(かなた)に埋(うず)もれさせておくには惜(お)しいことでの、裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への否定さえも、のうのうと飄々(ひょうひょう)と公然と喝破(かっぱ)し続けていた熊澤天皇の存在そのものや、
 
     裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への
    否定さえも、のうのうと飄々(ひょうひょう)と公然と
    喝破(かっぱ)し続けていたことに対して、内務省警保局・警察を
    始めとする大日本帝国政府・諸機関の動静(熊沢天皇の
    身辺調査など)や、
 
     更(さら)に戦後日本での、熊澤天皇一派と、裕仁天皇ら
    大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家麾下(きか)の日本国政府
    諸官公庁・諸機関との両者の活動(対決)
 
などの数々の“奇行”(足跡)の実録(ノンフィクション)漫画(本)を、美食(グルメ)漫画(本)のみならず、『マンガ日本人と天皇』や『蝙蝠を撃て!』などの社会派漫画(本)も上梓(じょうし)されている雁屋哲氏が上梓(じょうし)されるように要望することを、何が何でも、多くの人々にやって貰(もら)わねば!?
 
 
 
マンガ日本人と天皇
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
『マンガ 日本人と天皇』(まんが にほんじんとてんのう)は、原作:雁屋哲、作画:シュガー佐藤による日本の漫画作品。1998年(平成10年)から2000年(平成12年)にかけて週刊『金曜日』に連載された。連載時の題名は『日本人と天皇』であり、雑誌連載時はマンガのみであったが、単行本では雁屋の解説文が追加された。2000年(平成12年)12月にいそっぷ社から単行本が、2003年(平成15年)4月に講談社から文庫本が出版された。2007年(平成19年)9月に韓国語版が出版された[1]。「日本マンガ史上最も過激な問題作」と言われる[2][3]。
目次[編集]
第1章 天皇とは何か――なぜいま「教育勅語」を問いなおすのか
第2章 近代天皇制の毒――天皇制の毒がまわりきった社会では何が起こったか
第3章 天皇の軍隊――日本軍はなぜ愚かな戦いを続けたのか
第4章 臣と民――「君が代」の「君」を天皇と言いくるめるのはなぜか
第5章 象徴天皇制――現代の天皇制は本当に「無害」なのか
第6章 昭和天皇の戦争責任――昭和天皇の「伝説」は果たして真実だったのか
第7章 天皇制の未来――天皇制から自由になるために我々は何をするべきか
書誌情報[編集]
連載情報[編集]
雑誌連載情報
第1章(週刊金曜日1998年10/23号 - 11/27号)
第2章(週刊金曜日1999年1/15号 - 2/12号)
第3章(週刊金曜日1999年3/12号 - 4/9号)
第4章(週刊金曜日1999年5/21号 - 6/18号)
第5章(週刊金曜日1999年7/23号 - 8/27号)
第6章(週刊金曜日1999年10/1号 - 11/12号)
第7章(週刊金曜日2000年1/14号 - 2/11号)
単行本[編集]
雁屋哲作、シュガー佐藤画 『マンガ日本人と天皇』 いそっぷ社、2000年12月。
雁屋哲作、シュガー佐藤画 『マンガ日本人と天皇 近代天皇制とはなにか』 講談社〈講談社+α文庫〉、2003年4月。
参考文献[編集]
『反日マンガの世界――イデオロギーまみれの怪しい漫画にご用心!』 唐沢俊一・高沢秀次・宮島理・中宮崇ほか、晋遊舎〈晋遊舎ムック〉、2007年3月23日。
『反日マンガの世界――イデオロギーまみれの怪しい漫画にご用心!』 唐沢俊一・高沢秀次・宮島理・中宮崇ほか、晋遊舎〈晋遊舎ブラック新書 7〉、2008年5月10日。
高澤秀次「雁屋哲「マンガ日本人と天皇」――ナルホドこりゃ漫画だ! (「天下の俗論」をガツン!)」、『諸君!』第33巻第3号、文藝春秋、2001年3月
 
 
 
蝙蝠を撃て!
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%99%E8%9D%A0%E3%82%92%E6%92%83%E3%81%A6!
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%99%E8%9D%A0%E3%82%92%E6%92%83%E3%81%A6!
『蝙蝠を撃て!』(こうもりをうて!)は、原作:雁屋哲、作画:シュガー佐藤による日本の漫画作品。1997年(平成9年)から1998年(平成10年)にかけて『週刊金曜日』(金曜日)に連載されたが、単行本化されていない。保守派の言論人を名指しで攻撃した内容から「左翼版ゴーマニズム宣言」と言われる[1][2]。
概要[編集]
喫茶店を舞台にして、店主と2人の大学生が保守派の言論人について批判的に会話する。週刊誌の編集者や書店の店主も会話に参加する。
登場人物[編集]
荻野朔次55歳。喫茶店「木の実」店主。
赤池一郎21歳。大学生。
白木遊美21歳。大学生。帰国子女。
水野祥子33歳。『週刊言論』編集者。
久田修50歳。書店「かみうお屋」店主。
書誌情報[編集]
第1話:プロローグ(週刊金曜日1997年2月21日)
第2話:プロローグ(週刊金曜日1997年2月28日)
第3話:江藤淳篇その1(週刊金曜日1997年3月7日)
第4話:江藤淳篇その2(週刊金曜日1997年3月14日)
第5話:江藤淳篇その3(週刊金曜日1997年3月21日)
第6話:江藤淳篇その4(週刊金曜日1997年3月28日)
第7話:江藤淳篇その5(週刊金曜日1997年4月4日)
第8話:西部邁篇その1(週刊金曜日1997年5月9日)
第9話:西部邁篇その2(週刊金曜日1997年5月16日)
第10話:西部邁篇その3(週刊金曜日1997年5月23日)
第11話:西部邁篇その4(週刊金曜日1997年5月30日)
第12話:渡部昇一篇その1(週刊金曜日1997年6月27日)
第13話:渡部昇一篇その2(週刊金曜日1997年7月4日)
第14話:渡部昇一篇その3(週刊金曜日1997年7月11日)
第15話:渡部昇一篇その4(週刊金曜日1997年7月18日)
第16話:西尾幹二篇その1(週刊金曜日1997年8月22日)
第17話:西尾幹二篇その2(週刊金曜日1997年8月29日)
第18話:西尾幹二篇その3(週刊金曜日1997年9月5日)
第19話:西尾幹二篇その4(週刊金曜日1997年9月12日)
第20話:西尾幹二篇その5(週刊金曜日1997年9月19日)
第21話:藤岡信勝篇その1(週刊金曜日1997年10月24日)
第22話:藤岡信勝篇その2(週刊金曜日1997年10月31日)
第23話:藤岡信勝篇その3(週刊金曜日1997年11月7日)
第24話:藤岡信勝篇その4(週刊金曜日1997年11月14日)
第25話:藤岡信勝篇その5(週刊金曜日1997年11月21日)
第26話:上坂冬子、曽野綾子篇その1(週刊金曜日1998年4月3日)
第27話:上坂冬子、曽野綾子篇その2(週刊金曜日1998年4月10日)
第28話:上坂冬子、曽野綾子篇その3(週刊金曜日1998年4月17日)
第29話:上坂冬子、曽野綾子篇その4(週刊金曜日1998年4月24日)
第30話:上坂冬子、曽野綾子篇その5(週刊金曜日1998年5月1日)
参考文献[編集]
高沢秀次「雁屋哲「江藤淳批判」漫画の薄っぺら--「美味しんぼ」原作者の迷走」、『諸君!』第29巻第6号、文藝春秋、1997年6月
脚注[編集]
1.^ 唐沢俊一ほか 『反日マンガの世界』 晋遊舎〈晋遊舎ムック〉、2007年。
2.^ 唐沢俊一ほか 『反日マンガの世界』 晋遊舎〈晋遊舎ブラック新書〉、2008年。
 
 
 
熊沢寛道
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)は日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする[1]。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだと述べている。
その姓は熊野宮の「熊」と奥州の地名・沢邑の「沢」をとって、熊沢姓を名乗ったとある。彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている。
生涯[編集]
熊沢寛道は幼名を金三郎といい、「金さ」と呼ばれた。実父の弥三郎は農業を営んでおり、寛道は三男であった。愛知県内の小学校を卒業後、1910年(明治43年)に徴兵によって豊橋騎兵連隊に入伍し、1913年(大正2年)浄土宗西山派立専門学寮に入寮し、卒業後、聖峰中学校に通いつつ、浄土宗西山派の布教僧となったが、1931年(昭和6年)に還俗。同年に、名古屋市で洋品雑貨商を開業[2]。
既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父熊沢大然(くまざわ ひろしか)に「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育ち、その父の死後、熊沢は南朝第118代天皇としてひそかに即位したという。1920年(大正9年)から父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰など)に送り続けていた。また、熊沢は1935年(昭和10年)前後で、葛尾天皇らと共に福島県双葉郡浪江町・大堀村辺りで後南朝の埋蔵金発掘をしている。
1945年(昭和20年)、名古屋市千種区内で雑貨商を営んでいた熊沢は、戦災で店を失い、廃業を余儀なくされる。同年、日本が連合国の占領下に入った後、11月にGHQのマッカーサー総司令官あてに請願書を送った。その嘆願書が丸の内郵船ビル総司令部翻訳課の担当中尉と親しい雑誌『ライフ』記者の目に止まった。
翌1946年(昭和21年)1月、アメリカの記者5名とGHQ将校が5時間取材し、その記事は『ライフ』、AP通信、ロイターなどで報道され、日本の新聞各社が彼を熊沢天皇と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった。彼に取り巻き利益を得ようと集まった支持者は、熊沢のために資金や公邸を提供した。なお、他に熊沢天皇と称する4名(そのほか熊沢天皇ではない南朝の天皇も数名)も現れた。
政府当局はこの頃、熊沢天皇の調査を行っているが、それは、天皇制批判の自由、言論の自由に対し、不敬罪の適用、天皇制護持を図る当局の態度を示すものであった。しかし、結局のところ熊沢に対して不敬罪の起訴は出来なかったが、その後、1946年(昭和21年)5月19日のプラカード事件では松島松太郎を不敬罪で起訴しており[3]、この頃は戦前の体制が残っていた事をよく示している。
勢いづいた熊沢は、1946年(昭和21年)5月政治団体「南朝奉戴国民同盟」を設立し、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。体制派の歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢天皇に次第に冷ややかになっていった。情勢を打開すべく、1947年(昭和22年)3月政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して[4]、党首として選挙で候補者を立てるが失敗する。その後、多くの側近、それに妻子までに熊沢は見捨てられた。
なお、この選挙の際、熊沢は有名な竹内文書が信雅王が先祖から伝承した品や宝物としてあったが盗まれたと言った。これは熊沢の支持者の吉田長蔵が福島県双葉郡葛尾村にある光福寺(後に観福寺)という南朝方の寺から明治中期に虚無僧の斎藤慈教により盗まれた宝を1920年(大正9年)に天津教の竹内巨麿が古物商から買い取ったと言ったことによる[5]。
1951年(昭和26年)、東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)。
その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。
1966年(昭和41年)に東京の板橋病院で膵癌のため死去。
著書[編集]
『大延文叢』(日本国体明徴会、1953年(昭和28年))
『南朝と足利天皇血統秘史 : 万世一系はいづこ』(三秘同心会、1962年(昭和37年))
注記[編集]
1.^ 日本史の虛像と実像、p.390
2.^ 秦氏の説に拠れば、「小学校卒業後、上京。正則中学校に通いつつ浄土宗の寺で修行したとあり、神戸で布教僧をしたためか話術に長け、筆も達筆」だったとする(秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年(平成14年)) ISBN 4-13-030120-9)。
3.^ 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』第4巻(吉川弘文館、1984年(昭和59年)) ISBN 4-642-00504-8 865頁〔佐藤昌三執筆〕
4.^ この「南朝奉戴国民同盟」には、外村天皇こと外村光陽も理論武装する為に参加している。
5.^ 長山靖生「竹内文献創作の起源と増幅」『別冊歴史読本 古史古伝と偽書の謎』(新人物往来社、2004年(平成16年)) ISBN 4-404-03077-0 87頁
参考文献[編集]
保阪正康『昭和史を騒がせた人びと』(グラフ社、1986年(昭和61年)) ISBN 4-7662-0115-9
玉川信明 編『エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である 御落胤と偽天皇』(社会評論社、1990年(平成2年)) ISBN 4-7845-0522-9
南博、師岡佑行、村上重良編『近代庶民生活誌 第11巻 (天皇・皇族)』(三一書房、1990年(平成2年)) ISBN 4-3809-0523-3
岡田晃房『熊沢天皇の末裔を訪ねて』、山地悠一郎『熊沢天皇は本当にニセモノだったのか』、田中聡『自称天皇たちの戦後史』
『天皇の伝説』所収(メディアワークス/主婦の友社、1997年(平成9年)) ISBN 4-07-307253-6秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(文春文庫、1999年(平成11年)) ISBN 4-16-745305-3
第27~28章 熊沢天皇始末記 上、下 p127~p170 〔初出:『正論』、1989年(平成元年)6月~7月号〕『別冊歴史読本 天皇家歴史大事典』(新人物往来社、2000年(平成12年))ISBN 978-4-4040-2753-5
長山靖生「偽史のなかの天皇」p175~p180保阪正康『天皇が十九人いた さまざまなる戦後』(角川文庫、2001年(平成13年)) ISBN 4-04-355603-9
天皇が十九人いた p14~p41 〔初出:『文藝春秋臨増 文藝春秋ノンフィクション』、1987年(昭和62年)4月〕山地悠一郎『後南朝再発掘 熊沢天皇事件の真実』(叢文社、2003年(平成15年)) ISBN 4-7947-0452-6
早瀬晴夫『消された皇統 : 幻の皇統系譜考』(今日の話題社、2003年(平成15年)) ISBN 4-8756-5530-4
藤巻一保『吾輩は天皇なり 熊沢天皇事件』(学研新書、2007年(平成19年)) ISBN 978-4-05-403470-9
原田実『トンデモニセ天皇の世界』(文芸社、2013年(平成25年)) ISBN 978-4-28-614192-3
中見利男『偽天皇事件に秘められた日本史の謎 (別冊宝島 2192)』(宝島社、2014年(平成26年)) ISBN 978-4-80-022710-2
関連項目[編集]
大覚寺統
後南朝
天皇の一覧
有田正憲(『南朝奉戴会』) - 戦前から熊沢を支援し続け、最期まで看取った。
熊澤秀浩(元プロ野球選手) - 選手名鑑で「熊沢天皇の末裔」と紹介された。
葦原金次郎 - 明治後半から昭和10年代の長きに渡って天皇を自称した。
橘天敬 - 明治天皇の落胤を自称。
竹綱貞男 - 同じく明治天皇の落胤を自称。
堀川辰吉郎 - 明治天皇の落胤と呼ばれた。
 
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。