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一億総皇族化で、天皇就任者も選挙で選出! ブログトップ

【目取真俊氏に、何が何でも熊澤天皇の実録本を上梓して貰(もら)わねば!】歴史の忘却の彼方(かなた)に埋(うず)もれさせておくには惜(お)しいことでの、裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への否定さえも、のうのうと飄々と公然と喝破し続けていた熊澤天皇の存在そのものや数々の“奇行”(足跡)の実録の活字文章版(本)と「はだしのゲン」画風・漫画版(本)を、気骨(きこつ)も文才もおありで芥川賞も受賞された目取真俊氏が執筆し上梓されるように要望することを、何が何でも、多くの人々にやって貰(もら)わねば! [一億総皇族化で、天皇就任者も選挙で選出!]

 
熊沢寛道https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)は日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父熊沢大然(くまざわ ひろしか)に「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育ち、その父の死後、熊沢は南朝第118代天皇としてひそかに即位したという。1920年(大正9年)から父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰など)に送り続けていた。
朝日新聞2012年9月28日(金)
オスプレイ、台風のため沖縄到着延期
在日米軍は27日に、オスプレイの配備先となる
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)への移動について、
台風17号接近のために28日は見送ることを外務省に
伝えた。オスプレイは米軍岩国基地(山口県岩国市)に
一時駐機中で、早ければ28日に沖縄に移す予定だった。
台風17号は30日に掛けて沖縄から本州に向かう
見通しのために、更に遅れる可能性もある。配備先の
沖縄では抗議の声が強まっている。米軍普天間飛行場の
ゲート前では、早朝から市民らが詰め掛けた。基地北側の
野嵩(のだけ)ゲート前では、市民団体の約50人が
警備員や警官の制止を振り切ってバリケードを乗り越えて
道路に座り込んだ。那覇市の塾講師の平良肇さん(64)と
妻の由美子さん(58)は「今までの方法では駄目。夫婦で
覚悟を決めて来た。いざとなったら基地に突入し沖縄の本気を
示したい」と話した。芥川賞作家の目取真俊さん(51)も
一団の中にいた。「抗議も無駄、県民大会も無駄。私達には、
もう選択肢がないんです」。
 
 
 歴史の忘却の彼方(かなた)に埋(うず)もれさせておくには惜(お)しいことでの、裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への否定さえも、のうのうと飄々(ひょうひょう)と公然と喝破(かっぱ)し続けていた熊澤天皇の存在そのものや、
 
     裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への
    否定さえも、のうのうと飄々(ひょうひょう)と公然と
    喝破(かっぱ)し続けていたことに対して内務省警保局・警察を
    始めとする大日本帝国政府・諸機関の動静(熊沢天皇の
    身辺調査など)や、
 
     更(さら)に戦後日本での、熊澤天皇一派と、裕仁天皇ら
    大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家麾下(きか)の日本国政府
    諸官公庁・諸機関との両者の活動(対決)
 
などの数々の“奇行”(足跡)の実録の活字文章版(本)と「はだしのゲン」画風・漫画版(本)を、気骨(きこつ)も文才もおありで芥川賞も受賞されたことでの
 
     海鳴りの島から
     沖縄・ヤンバルより…目取真俊
      http://blog.goo.ne.jp/awamori777
      http://blog.goo.ne.jp/awamori777
     こういう連中のために新たな基地を造ってやるのか。
     2017-02-15 23:57:47 | 米軍・自衛隊・基地問題
     昨年4月に名護市出身の女性を殺害した元海兵隊員の米軍属が、
     被害者の女性に責任転嫁する見解を示している。15日は
     朝っぱらから怒りと不快感を駆り立てる記事を目にして
     辺野古に向かった。
      http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/4bc5f3d6a45d81bd287b2097dd12b492
      http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/4bc5f3d6a45d81bd287b2097dd12b492
 
の目取真俊氏が執筆し上梓(じょうし)されるように要望することを、何が何でも、多くの人々にやって貰(もら)わねば!
 
 
 
皇室王朝交替についてYO
 http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/kousitu1.htm
 http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/kousitu1.htm
明治維新から第二次世界大戦まで、日本は神武以来
万世一系の天皇により統治され、国家のよりどころと
してきた。そのため、万世一系の思想を否定することは、
国家に対しての重大な犯罪とみなされた。戦後、その
思想が解放され万世一系の皇統思想を否定する学説が
数多く発表され、複数の王朝が交替したとする説が学界
の承認を得ており、神武天皇は歴史の教科書に出て
こない。
今回、諸説あるが、私の解釈として皇室王朝は、神武
王朝→崇神王朝→応神王朝→継体王朝と血縁関係が
ない王朝交替があった。さらに、継体王朝の中でも壬申
の乱などの天智王朝対天武王朝の争い及び南北朝の
争いなど、血の繋がりのうすい皇族同士の王朝交替が
あった。これらに関して述べていく。
 
 
 
朝日新聞2008年3月4日(火)夕刊
 
『足利義満-消された日本国王』
(光文社新書:小島毅)
気鋭の歴史学者が、最新の研究結果を基に描くことでの
「天皇になろうとした将軍』の実像。歴史認識がガラリと
変わる一冊
 
 
 
朝日新聞2007年5月25日(金)
 
『歴史読本』2007年7月号
検証
後南朝秘録
後南朝を巡る「隠された歴史」の深層に迫る
正史後南朝史/南北朝の天皇・武将・合戦
別冊付録・熊沢天皇事件論争
 
 
 
朝日新聞2008年10月4日(土)
 
『皇族誕生-戦前の皇族は、どう作られ、消滅したか。』
(角川書店:浅見雅男)
明治以降に、激増する「宮家」。5百年以上も遡(さかのぼ)ら
なければ天皇と繋(つな)がらない人々が、「皇族」となった
理由。それの真実に迫る。
 
 
 
朝日新聞2008年10月4日(土)
 
『日本の歴代権力者』
(幻冬社:比較文学者学術博士・小谷野敦)
天皇家が滅びず存続した理由も分かることでの日本人必読の書。
実は日本の歴史で、天皇が最高権力者だった例は少ない。
聖徳太子から藤原良房、吉田茂、森喜朗まで126人が勢揃
(せいぞろ)い。彼らの肩書きを並べれば、この国の形と、天皇・
将軍・総理大臣さえ形骸化することでの独特の権力構造が明らかに。
 
 
 
『原爆の秘密-[国内篇]昭和天皇は知っていた』
(成甲書房http://www.seikoshobo.co.jp:鬼塚英昭)
投下時刻の廣島(広島(ひろしま))に集められた徹底抗戦派将校、
長崎からはアメリカ兵捕虜が忽然と消えた。天皇保身、日本人による
日本人殺し、それが、あの夏の惨劇の真相。痛憤と嗚咽を呼ぶ昭和驚愕史。
 
『原爆の秘密-[国外篇]殺人兵器と狂気の錬金術』
(成甲書房http://www.seikoshobo.co.jp:鬼塚英昭)
ポツダム宣言を遅らせてまで日本を2種の原爆の実験場にした国際
金融寡頭勢力、日本の支配層は、その奸計に同胞の命を捧げた。原爆製造・
投下の従来の定説を徹底的に覆す歴史の真実。
 
『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった』
(成甲書房http://www.seikoshobo.co.jp:鬼塚英昭)
「日本のいちばん長い日」は、「日本のいちばん醜い日」だった!
1945年(昭和20年)8月14日から15日の二日間に発生した「8・15
宮城事件」、世にいう「日本のいちばん長い日」――徹底抗戦を叫ぶ
陸軍少壮将校たちが昭和天皇の玉音盤の奪取を謀って皇居を占拠したと
されるクーデターで、森赳近衛師団長が惨殺される。この惨殺は
なぜ決行されたのか? いつ、どこで殺害されたのか? 遺体は
どう処理されたのか? 膨大な史料と格闘しながら真相を追っていく
うちに著者は、この事件が巧妙なシナリオにのっとった偽装クーデター
であることを発見、さらに歴史の暗部をさぐるうちに、ついには
皇族・財閥・軍部が結託した支配構造の深層にたどりつく。この日本
という国に依然として残る巨大な「タブー」に敢然として挑戦する
「危険な昭和史ノンフィクション」の登場!
 
 
 
『技術と人間』1986年4月号
-81頁-
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緑風出版
田中伸尚全6巻予約受付中!
〔既刊〕
『ドキュメント昭和天皇-第1巻・侵略』
『ドキュメント昭和天皇-第2巻・開戦』
在位六十年を問う大河ドキュメント第三弾!
『ドキュメント昭和天皇-第3巻・崩壊』
緒戦の勝利に酔うことでの1942年元旦の宮中。「戦果が早く挙がり過ぎ
るよ」と相好を崩す天皇。驕(おご)りの中でのミッドウェー海戦敗北、ガダル
カナルの敗勢に「今村、しっかり頼むぞ」と天皇は必死で戦争指導の先頭に
立ち続ける。が、絶対防空圏は破れ、「米軍をビシャリと叩けぬか」と叫ぶ中で
大日本帝国の崩壊が始まる。待望の第三巻新年発売!
四六判上製456頁、2400円。
 
 
 
『技術と人間』1984年12月号
-裏表紙-
『Xデーがやってくる!』
(柘植書房:菅孝行編著)
危機の中の天皇制攻撃
「昭和終焉の日」を契機に新たな天皇制攻撃が行われようと
している。立川、沖縄、山谷、靖国等の反天皇制の運動から
寄せられたレポートによって、危機の中で進められている強権
国家化の狙いを暴く。
 
 
 
朝日新聞2008年9月12日(金)
 
映画ポスターを張った疑いで監督逮捕
軽犯罪法違反容疑
街路灯に映画のポスターを張ったとして、警視庁公安部は11日に、
住所不定、映画監督・渡辺文樹容疑者(55)を軽犯罪法違反(はり
紙)の疑いで現行犯逮捕した。容疑を否認していると言う。
公安部によると、同日午前4時10分ごろ、東京都江東区亀戸
4丁目で、「天皇伝説」と題した映画の告知ポスターを街路灯に張った
ことが逮捕容疑。ポスターには「現天皇は、昭和天皇の子ではない」
との趣旨も書かれていた。一緒にいたことでの30歳代の女性からも
事情を聞いている。
渡辺容疑者は、天皇制に反対する活動家と警察との鬩(せめ)ぎ
合いを描いた映画『腹腹時計』や中学生の自殺を題材にした
『ザザンボ』などの作品で知られる。
 
 
 
竹原信一
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E4%B8%80
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E4%B8%80
竹原 信一(たけはら しんいち、1959年3月7日[1] - )は、日本の政治家、鹿児島県阿久根市議会議員(2期)。前阿久根市長(2期)。元航空自衛官(最終階級:二等空尉)。
その他の主張[編集]
陰謀論について[編集]
自身のブログで根拠の無い陰謀論を表明することがある。
自衛隊には皇室や吉田、岸、児玉といった「金持ち組織」のために工作をおこなう所があるという話を聞いている。その一つが陸上幕僚監部調査第二部別室(現・情報本部)である[110]。
「そもそも孝明天皇は伊藤博文に暗殺された。伊藤は皇太子も殺した上に自分の手下、大室寅之助とすり替わらせた。これが明治天皇の正体だ」[112]「今の天皇家はまさしくどこの馬の骨とも分からない家系」[113]
日本国憲法について[編集]
憲法9条については、変えてはならないとする立場である[117]。
 
 
 
犬丸勝子と立国党(不正選挙NO)https://twitter.com/inumaru19明治天皇は大室寅之祐(依然は寅吉)?田布施出身は本当?謎を追って。その1(どんなとこ?)
 2014/03/09 に公開https://www.youtube.com/watch?v=VnEYC0jyVqE
犬丸勝子と立国党(不正選挙NO)https://twitter.com/inumaru19第2弾 明治天皇(大室寅之祐=寅吉) 山口県田布施出身を追った。そこで見たのが「岸・佐藤兄弟宰相と安倍首相」とは~!
 2014/03/30 に公開https://www.youtube.com/watch?v=71PsJlz5SEs
ワールドフォーラム 真実が未来を拓くhttps://twitter.com/worldforumjp【全編】佐宗邦皇代表「歴史的重大事件の裏に隠された驚くべき真相」 ワールドフォーラム特別講演[0:12:30~0:37:40]
 2011/04/22 に公開https://www.youtube.com/watch?v=Xk5oLfYjg9k
 
 
 
熊沢寛道
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)は日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする[1]。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだと述べている。
その姓は熊野宮の「熊」と奥州の地名・沢邑の「沢」をとって、熊沢姓を名乗ったとある。彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている。
生涯[編集]
熊沢寛道は幼名を金三郎といい、「金さ」と呼ばれた。実父の弥三郎は農業を営んでおり、寛道は三男であった。愛知県内の小学校を卒業後、1910年(明治43年)に徴兵によって豊橋騎兵連隊に入伍し、1913年(大正2年)浄土宗西山派立専門学寮に入寮し、卒業後、聖峰中学校に通いつつ、浄土宗西山派の布教僧となったが、1931年(昭和6年)に還俗。同年に、名古屋市で洋品雑貨商を開業[2]。
既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父熊沢大然(くまざわ ひろしか)に「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育ち、その父の死後、熊沢は南朝第118代天皇としてひそかに即位したという。1920年(大正9年)から父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰など)に送り続けていた。また、熊沢は1935年(昭和10年)前後で、葛尾天皇らと共に福島県双葉郡浪江町・大堀村辺りで後南朝の埋蔵金発掘をしている。
1945年(昭和20年)、名古屋市千種区内で雑貨商を営んでいた熊沢は、戦災で店を失い、廃業を余儀なくされる。同年、日本が連合国の占領下に入った後、11月にGHQのマッカーサー総司令官あてに請願書を送った。その嘆願書が丸の内郵船ビル総司令部翻訳課の担当中尉と親しい雑誌『ライフ』記者の目に止まった。
翌1946年(昭和21年)1月、アメリカの記者5名とGHQ将校が5時間取材し、その記事は『ライフ』、AP通信、ロイターなどで報道され、日本の新聞各社が彼を熊沢天皇と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった。彼に取り巻き利益を得ようと集まった支持者は、熊沢のために資金や公邸を提供した。なお、他に熊沢天皇と称する4名(そのほか熊沢天皇ではない南朝の天皇も数名)も現れた。
政府当局はこの頃、熊沢天皇の調査を行っているが、それは、天皇制批判の自由、言論の自由に対し、不敬罪の適用、天皇制護持を図る当局の態度を示すものであった。しかし、結局のところ熊沢に対して不敬罪の起訴は出来なかったが、その後、1946年(昭和21年)5月19日のプラカード事件では松島松太郎を不敬罪で起訴しており[3]、この頃は戦前の体制が残っていた事をよく示している。
勢いづいた熊沢は、1946年(昭和21年)5月政治団体「南朝奉戴国民同盟」を設立し、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。体制派の歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢天皇に次第に冷ややかになっていった。情勢を打開すべく、1947年(昭和22年)3月政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して[4]、党首として選挙で候補者を立てるが失敗する。その後、多くの側近、それに妻子までに熊沢は見捨てられた。
なお、この選挙の際、熊沢は有名な竹内文書が信雅王が先祖から伝承した品や宝物としてあったが盗まれたと言った。これは熊沢の支持者の吉田長蔵が福島県双葉郡葛尾村にある光福寺(後に観福寺)という南朝方の寺から明治中期に虚無僧の斎藤慈教により盗まれた宝を1920年(大正9年)に天津教の竹内巨麿が古物商から買い取ったと言ったことによる[5]。
1951年(昭和26年)、東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)。
その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。
1966年(昭和41年)に東京の板橋病院で膵癌のため死去。
著書[編集]
『大延文叢』(日本国体明徴会、1953年(昭和28年))
『南朝と足利天皇血統秘史 : 万世一系はいづこ』(三秘同心会、1962年(昭和37年))
注記[編集]
1.^ 日本史の虛像と実像、p.390
2.^ 秦氏の説に拠れば、「小学校卒業後、上京。正則中学校に通いつつ浄土宗の寺で修行したとあり、神戸で布教僧をしたためか話術に長け、筆も達筆」だったとする(秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年(平成14年)) ISBN 4-13-030120-9)。
3.^ 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』第4巻(吉川弘文館、1984年(昭和59年)) ISBN 4-642-00504-8 865頁〔佐藤昌三執筆〕
4.^ この「南朝奉戴国民同盟」には、外村天皇こと外村光陽も理論武装する為に参加している。
5.^ 長山靖生「竹内文献創作の起源と増幅」『別冊歴史読本 古史古伝と偽書の謎』(新人物往来社、2004年(平成16年)) ISBN 4-404-03077-0 87頁
参考文献[編集]
保阪正康『昭和史を騒がせた人びと』(グラフ社、1986年(昭和61年)) ISBN 4-7662-0115-9
玉川信明 編『エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である 御落胤と偽天皇』(社会評論社、1990年(平成2年)) ISBN 4-7845-0522-9
南博、師岡佑行、村上重良編『近代庶民生活誌 第11巻 (天皇・皇族)』(三一書房、1990年(平成2年)) ISBN 4-3809-0523-3
岡田晃房『熊沢天皇の末裔を訪ねて』、山地悠一郎『熊沢天皇は本当にニセモノだったのか』、田中聡『自称天皇たちの戦後史』『天皇の伝説』所収(メディアワークス/主婦の友社、1997年(平成9年)) ISBN 4-07-307253-6
秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(文春文庫、1999年(平成11年)) ISBN 4-16-745305-3第27~28章 熊沢天皇始末記 上、下 p127~p170 〔初出:『正論』、1989年(平成元年)6月~7月号〕
『別冊歴史読本 天皇家歴史大事典』(新人物往来社、2000年(平成12年))ISBN 978-4-4040-2753-5長山靖生「偽史のなかの天皇」p175~p180
保阪正康『天皇が十九人いた さまざまなる戦後』(角川文庫、2001年(平成13年)) ISBN 4-04-355603-9天皇が十九人いた p14~p41 〔初出:『文藝春秋臨増 文藝春秋ノンフィクション』、1987年(昭和62年)4月〕
山地悠一郎『後南朝再発掘 熊沢天皇事件の真実』(叢文社、2003年(平成15年)) ISBN 4-7947-0452-6
早瀬晴夫『消された皇統 : 幻の皇統系譜考』(今日の話題社、2003年(平成15年)) ISBN 4-8756-5530-4
藤巻一保『吾輩は天皇なり 熊沢天皇事件』(学研新書、2007年(平成19年)) ISBN 978-4-05-403470-9
原田実『トンデモニセ天皇の世界』(文芸社、2013年(平成25年)) ISBN 978-4-28-614192-3
中見利男『偽天皇事件に秘められた日本史の謎 (別冊宝島 2192)』(宝島社、2014年(平成26年)) ISBN 978-4-80-022710-2
関連項目[編集]
大覚寺統
後南朝
天皇の一覧
有田正憲(『南朝奉戴会』) - 戦前から熊沢を支援し続け、最期まで看取った。
熊澤秀浩(元プロ野球選手) - 選手名鑑で「熊沢天皇の末裔」と紹介された。
葦原金次郎 - 明治後半から昭和10年代の長きに渡って天皇を自称した。
橘天敬 - 明治天皇の落胤を自称。
竹綱貞男 - 同じく明治天皇の落胤を自称。
堀川辰吉郎 - 明治天皇の落胤と呼ばれた。
 

【雁屋哲氏に、何が何でも、熊澤天皇の実録漫画(本)を上梓して貰(もら)わねば!】歴史の忘却の彼方に埋もれさせておくには惜(お)しいことでの、裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への否定さえも、のうのうと飄々と公然と喝破し続けていた熊澤天皇の存在そのものや数々の“奇行”(足跡)の実録の漫画(本)を、美食(グルメ)漫画(本)のみならず、『マンガ日本人と天皇』や『蝙蝠を撃て!』などの社会派漫画(本)も上梓されている雁屋哲氏が上梓されるように要望することを、何が何でも、多くの人々にやって貰わねば!? [一億総皇族化で、天皇就任者も選挙で選出!]

 
熊沢寛道https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)は日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父熊沢大然(くまざわ ひろしか)に「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育ち、その父の死後、熊沢は南朝第118代天皇としてひそかに即位したという。1920年(大正9年)から父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰など)に送り続けていた。
犬丸勝子と立国党(不正選挙NO)https://twitter.com/inumaru19明治天皇は大室寅之祐(依然は寅吉)?田布施出身は本当?謎を追って。その1(どんなとこ?)
 2014/03/09 に公開https://www.youtube.com/watch?v=VnEYC0jyVqE
犬丸勝子と立国党(不正選挙NO)https://twitter.com/inumaru19第2弾 明治天皇(大室寅之祐=寅吉) 山口県田布施出身を追った。そこで見たのが「岸・佐藤兄弟宰相と安倍首相」とは~!
 2014/03/30 に公開https://www.youtube.com/watch?v=71PsJlz5SEs
ワールドフォーラム 真実が未来を拓くhttps://twitter.com/worldforumjp【全編】佐宗邦皇代表「歴史的重大事件の裏に隠された驚くべき真相」 ワールドフォーラム特別講演[0:12:30~0:37:40]
 2011/04/22 に公開https://www.youtube.com/watch?v=Xk5oLfYjg9k
 
 歴史の忘却の彼方(かなた)に埋(うず)もれさせておくには惜(お)しいことでの、裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への否定さえも、のうのうと飄々(ひょうひょう)と公然と喝破(かっぱ)し続けていた熊澤天皇の存在そのものや、
 
     裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への
    否定さえも、のうのうと飄々(ひょうひょう)と公然と
    喝破(かっぱ)し続けていたことに対して、内務省警保局・警察を
    始めとする大日本帝国政府・諸機関の動静(熊沢天皇の
    身辺調査など)や、
 
     更(さら)に戦後日本での、熊澤天皇一派と、裕仁天皇ら
    大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家麾下(きか)の日本国政府
    諸官公庁・諸機関との両者の活動(対決)
 
などの数々の“奇行”(足跡)の実録(ノンフィクション)漫画(本)を、美食(グルメ)漫画(本)のみならず、『マンガ日本人と天皇』や『蝙蝠を撃て!』などの社会派漫画(本)も上梓(じょうし)されている雁屋哲氏が上梓(じょうし)されるように要望することを、何が何でも、多くの人々にやって貰(もら)わねば!?
 
 
 
マンガ日本人と天皇
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
『マンガ 日本人と天皇』(まんが にほんじんとてんのう)は、原作:雁屋哲、作画:シュガー佐藤による日本の漫画作品。1998年(平成10年)から2000年(平成12年)にかけて週刊『金曜日』に連載された。連載時の題名は『日本人と天皇』であり、雑誌連載時はマンガのみであったが、単行本では雁屋の解説文が追加された。2000年(平成12年)12月にいそっぷ社から単行本が、2003年(平成15年)4月に講談社から文庫本が出版された。2007年(平成19年)9月に韓国語版が出版された[1]。「日本マンガ史上最も過激な問題作」と言われる[2][3]。
目次[編集]
第1章 天皇とは何か――なぜいま「教育勅語」を問いなおすのか
第2章 近代天皇制の毒――天皇制の毒がまわりきった社会では何が起こったか
第3章 天皇の軍隊――日本軍はなぜ愚かな戦いを続けたのか
第4章 臣と民――「君が代」の「君」を天皇と言いくるめるのはなぜか
第5章 象徴天皇制――現代の天皇制は本当に「無害」なのか
第6章 昭和天皇の戦争責任――昭和天皇の「伝説」は果たして真実だったのか
第7章 天皇制の未来――天皇制から自由になるために我々は何をするべきか
書誌情報[編集]
連載情報[編集]
雑誌連載情報
第1章(週刊金曜日1998年10/23号 - 11/27号)
第2章(週刊金曜日1999年1/15号 - 2/12号)
第3章(週刊金曜日1999年3/12号 - 4/9号)
第4章(週刊金曜日1999年5/21号 - 6/18号)
第5章(週刊金曜日1999年7/23号 - 8/27号)
第6章(週刊金曜日1999年10/1号 - 11/12号)
第7章(週刊金曜日2000年1/14号 - 2/11号)
単行本[編集]
雁屋哲作、シュガー佐藤画 『マンガ日本人と天皇』 いそっぷ社、2000年12月。
雁屋哲作、シュガー佐藤画 『マンガ日本人と天皇 近代天皇制とはなにか』 講談社〈講談社+α文庫〉、2003年4月。
参考文献[編集]
『反日マンガの世界――イデオロギーまみれの怪しい漫画にご用心!』 唐沢俊一・高沢秀次・宮島理・中宮崇ほか、晋遊舎〈晋遊舎ムック〉、2007年3月23日。
『反日マンガの世界――イデオロギーまみれの怪しい漫画にご用心!』 唐沢俊一・高沢秀次・宮島理・中宮崇ほか、晋遊舎〈晋遊舎ブラック新書 7〉、2008年5月10日。
高澤秀次「雁屋哲「マンガ日本人と天皇」――ナルホドこりゃ漫画だ! (「天下の俗論」をガツン!)」、『諸君!』第33巻第3号、文藝春秋、2001年3月
 
 
 
蝙蝠を撃て!
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%99%E8%9D%A0%E3%82%92%E6%92%83%E3%81%A6!
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%99%E8%9D%A0%E3%82%92%E6%92%83%E3%81%A6!
『蝙蝠を撃て!』(こうもりをうて!)は、原作:雁屋哲、作画:シュガー佐藤による日本の漫画作品。1997年(平成9年)から1998年(平成10年)にかけて『週刊金曜日』(金曜日)に連載されたが、単行本化されていない。保守派の言論人を名指しで攻撃した内容から「左翼版ゴーマニズム宣言」と言われる[1][2]。
概要[編集]
喫茶店を舞台にして、店主と2人の大学生が保守派の言論人について批判的に会話する。週刊誌の編集者や書店の店主も会話に参加する。
登場人物[編集]
荻野朔次55歳。喫茶店「木の実」店主。
赤池一郎21歳。大学生。
白木遊美21歳。大学生。帰国子女。
水野祥子33歳。『週刊言論』編集者。
久田修50歳。書店「かみうお屋」店主。
書誌情報[編集]
第1話:プロローグ(週刊金曜日1997年2月21日)
第2話:プロローグ(週刊金曜日1997年2月28日)
第3話:江藤淳篇その1(週刊金曜日1997年3月7日)
第4話:江藤淳篇その2(週刊金曜日1997年3月14日)
第5話:江藤淳篇その3(週刊金曜日1997年3月21日)
第6話:江藤淳篇その4(週刊金曜日1997年3月28日)
第7話:江藤淳篇その5(週刊金曜日1997年4月4日)
第8話:西部邁篇その1(週刊金曜日1997年5月9日)
第9話:西部邁篇その2(週刊金曜日1997年5月16日)
第10話:西部邁篇その3(週刊金曜日1997年5月23日)
第11話:西部邁篇その4(週刊金曜日1997年5月30日)
第12話:渡部昇一篇その1(週刊金曜日1997年6月27日)
第13話:渡部昇一篇その2(週刊金曜日1997年7月4日)
第14話:渡部昇一篇その3(週刊金曜日1997年7月11日)
第15話:渡部昇一篇その4(週刊金曜日1997年7月18日)
第16話:西尾幹二篇その1(週刊金曜日1997年8月22日)
第17話:西尾幹二篇その2(週刊金曜日1997年8月29日)
第18話:西尾幹二篇その3(週刊金曜日1997年9月5日)
第19話:西尾幹二篇その4(週刊金曜日1997年9月12日)
第20話:西尾幹二篇その5(週刊金曜日1997年9月19日)
第21話:藤岡信勝篇その1(週刊金曜日1997年10月24日)
第22話:藤岡信勝篇その2(週刊金曜日1997年10月31日)
第23話:藤岡信勝篇その3(週刊金曜日1997年11月7日)
第24話:藤岡信勝篇その4(週刊金曜日1997年11月14日)
第25話:藤岡信勝篇その5(週刊金曜日1997年11月21日)
第26話:上坂冬子、曽野綾子篇その1(週刊金曜日1998年4月3日)
第27話:上坂冬子、曽野綾子篇その2(週刊金曜日1998年4月10日)
第28話:上坂冬子、曽野綾子篇その3(週刊金曜日1998年4月17日)
第29話:上坂冬子、曽野綾子篇その4(週刊金曜日1998年4月24日)
第30話:上坂冬子、曽野綾子篇その5(週刊金曜日1998年5月1日)
参考文献[編集]
高沢秀次「雁屋哲「江藤淳批判」漫画の薄っぺら--「美味しんぼ」原作者の迷走」、『諸君!』第29巻第6号、文藝春秋、1997年6月
脚注[編集]
1.^ 唐沢俊一ほか 『反日マンガの世界』 晋遊舎〈晋遊舎ムック〉、2007年。
2.^ 唐沢俊一ほか 『反日マンガの世界』 晋遊舎〈晋遊舎ブラック新書〉、2008年。
 
 
 
熊沢寛道
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)は日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする[1]。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだと述べている。
その姓は熊野宮の「熊」と奥州の地名・沢邑の「沢」をとって、熊沢姓を名乗ったとある。彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている。
生涯[編集]
熊沢寛道は幼名を金三郎といい、「金さ」と呼ばれた。実父の弥三郎は農業を営んでおり、寛道は三男であった。愛知県内の小学校を卒業後、1910年(明治43年)に徴兵によって豊橋騎兵連隊に入伍し、1913年(大正2年)浄土宗西山派立専門学寮に入寮し、卒業後、聖峰中学校に通いつつ、浄土宗西山派の布教僧となったが、1931年(昭和6年)に還俗。同年に、名古屋市で洋品雑貨商を開業[2]。
既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父熊沢大然(くまざわ ひろしか)に「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育ち、その父の死後、熊沢は南朝第118代天皇としてひそかに即位したという。1920年(大正9年)から父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰など)に送り続けていた。また、熊沢は1935年(昭和10年)前後で、葛尾天皇らと共に福島県双葉郡浪江町・大堀村辺りで後南朝の埋蔵金発掘をしている。
1945年(昭和20年)、名古屋市千種区内で雑貨商を営んでいた熊沢は、戦災で店を失い、廃業を余儀なくされる。同年、日本が連合国の占領下に入った後、11月にGHQのマッカーサー総司令官あてに請願書を送った。その嘆願書が丸の内郵船ビル総司令部翻訳課の担当中尉と親しい雑誌『ライフ』記者の目に止まった。
翌1946年(昭和21年)1月、アメリカの記者5名とGHQ将校が5時間取材し、その記事は『ライフ』、AP通信、ロイターなどで報道され、日本の新聞各社が彼を熊沢天皇と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった。彼に取り巻き利益を得ようと集まった支持者は、熊沢のために資金や公邸を提供した。なお、他に熊沢天皇と称する4名(そのほか熊沢天皇ではない南朝の天皇も数名)も現れた。
政府当局はこの頃、熊沢天皇の調査を行っているが、それは、天皇制批判の自由、言論の自由に対し、不敬罪の適用、天皇制護持を図る当局の態度を示すものであった。しかし、結局のところ熊沢に対して不敬罪の起訴は出来なかったが、その後、1946年(昭和21年)5月19日のプラカード事件では松島松太郎を不敬罪で起訴しており[3]、この頃は戦前の体制が残っていた事をよく示している。
勢いづいた熊沢は、1946年(昭和21年)5月政治団体「南朝奉戴国民同盟」を設立し、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。体制派の歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢天皇に次第に冷ややかになっていった。情勢を打開すべく、1947年(昭和22年)3月政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して[4]、党首として選挙で候補者を立てるが失敗する。その後、多くの側近、それに妻子までに熊沢は見捨てられた。
なお、この選挙の際、熊沢は有名な竹内文書が信雅王が先祖から伝承した品や宝物としてあったが盗まれたと言った。これは熊沢の支持者の吉田長蔵が福島県双葉郡葛尾村にある光福寺(後に観福寺)という南朝方の寺から明治中期に虚無僧の斎藤慈教により盗まれた宝を1920年(大正9年)に天津教の竹内巨麿が古物商から買い取ったと言ったことによる[5]。
1951年(昭和26年)、東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)。
その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。
1966年(昭和41年)に東京の板橋病院で膵癌のため死去。
著書[編集]
『大延文叢』(日本国体明徴会、1953年(昭和28年))
『南朝と足利天皇血統秘史 : 万世一系はいづこ』(三秘同心会、1962年(昭和37年))
注記[編集]
1.^ 日本史の虛像と実像、p.390
2.^ 秦氏の説に拠れば、「小学校卒業後、上京。正則中学校に通いつつ浄土宗の寺で修行したとあり、神戸で布教僧をしたためか話術に長け、筆も達筆」だったとする(秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年(平成14年)) ISBN 4-13-030120-9)。
3.^ 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』第4巻(吉川弘文館、1984年(昭和59年)) ISBN 4-642-00504-8 865頁〔佐藤昌三執筆〕
4.^ この「南朝奉戴国民同盟」には、外村天皇こと外村光陽も理論武装する為に参加している。
5.^ 長山靖生「竹内文献創作の起源と増幅」『別冊歴史読本 古史古伝と偽書の謎』(新人物往来社、2004年(平成16年)) ISBN 4-404-03077-0 87頁
参考文献[編集]
保阪正康『昭和史を騒がせた人びと』(グラフ社、1986年(昭和61年)) ISBN 4-7662-0115-9
玉川信明 編『エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である 御落胤と偽天皇』(社会評論社、1990年(平成2年)) ISBN 4-7845-0522-9
南博、師岡佑行、村上重良編『近代庶民生活誌 第11巻 (天皇・皇族)』(三一書房、1990年(平成2年)) ISBN 4-3809-0523-3
岡田晃房『熊沢天皇の末裔を訪ねて』、山地悠一郎『熊沢天皇は本当にニセモノだったのか』、田中聡『自称天皇たちの戦後史』
『天皇の伝説』所収(メディアワークス/主婦の友社、1997年(平成9年)) ISBN 4-07-307253-6秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(文春文庫、1999年(平成11年)) ISBN 4-16-745305-3
第27~28章 熊沢天皇始末記 上、下 p127~p170 〔初出:『正論』、1989年(平成元年)6月~7月号〕『別冊歴史読本 天皇家歴史大事典』(新人物往来社、2000年(平成12年))ISBN 978-4-4040-2753-5
長山靖生「偽史のなかの天皇」p175~p180保阪正康『天皇が十九人いた さまざまなる戦後』(角川文庫、2001年(平成13年)) ISBN 4-04-355603-9
天皇が十九人いた p14~p41 〔初出:『文藝春秋臨増 文藝春秋ノンフィクション』、1987年(昭和62年)4月〕山地悠一郎『後南朝再発掘 熊沢天皇事件の真実』(叢文社、2003年(平成15年)) ISBN 4-7947-0452-6
早瀬晴夫『消された皇統 : 幻の皇統系譜考』(今日の話題社、2003年(平成15年)) ISBN 4-8756-5530-4
藤巻一保『吾輩は天皇なり 熊沢天皇事件』(学研新書、2007年(平成19年)) ISBN 978-4-05-403470-9
原田実『トンデモニセ天皇の世界』(文芸社、2013年(平成25年)) ISBN 978-4-28-614192-3
中見利男『偽天皇事件に秘められた日本史の謎 (別冊宝島 2192)』(宝島社、2014年(平成26年)) ISBN 978-4-80-022710-2
関連項目[編集]
大覚寺統
後南朝
天皇の一覧
有田正憲(『南朝奉戴会』) - 戦前から熊沢を支援し続け、最期まで看取った。
熊澤秀浩(元プロ野球選手) - 選手名鑑で「熊沢天皇の末裔」と紹介された。
葦原金次郎 - 明治後半から昭和10年代の長きに渡って天皇を自称した。
橘天敬 - 明治天皇の落胤を自称。
竹綱貞男 - 同じく明治天皇の落胤を自称。
堀川辰吉郎 - 明治天皇の落胤と呼ばれた。
 

【熊澤天皇の実録本の執筆を、何が何でも森村誠一氏に!】歴史の忘却の彼方(かなた)に埋(うず)もれさせておくには惜(お)しいことでの、裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への否定さえも、のうのうと飄々と公然と喝破(かっぱ)し続けていた熊澤天皇の存在そのものや数々の“奇行”(足跡)の実録の活字文章版(本)と「はだしのゲン」画風・漫画版(本)を、推理小説のみならず政治小説や実録も数多く手掛けられている森村誠一氏が執筆し上梓されるように要望することを、何が何でも、多くの人々にやって貰(もら)わねば! [一億総皇族化で、天皇就任者も選挙で選出!]

 
熊沢寛道https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)は日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父熊沢大然(くまざわ ひろしか)に「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育ち、その父の死後、熊沢は南朝第118代天皇としてひそかに即位したという。1920年(大正9年)から父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰など)に送り続けていた。
犬丸勝子と立国党(不正選挙NO)https://twitter.com/inumaru19明治天皇は大室寅之祐(依然は寅吉)?田布施出身は本当?謎を追って。その1(どんなとこ?)
 2014/03/09 に公開https://www.youtube.com/watch?v=VnEYC0jyVqE
犬丸勝子と立国党(不正選挙NO)https://twitter.com/inumaru19第2弾 明治天皇(大室寅之祐=寅吉) 山口県田布施出身を追った。そこで見たのが「岸・佐藤兄弟宰相と安倍首相」とは~!
 2014/03/30 に公開https://www.youtube.com/watch?v=71PsJlz5SEs
ワールドフォーラム 真実が未来を拓くhttps://twitter.com/worldforumjp【全編】佐宗邦皇代表「歴史的重大事件の裏に隠された驚くべき真相」 ワールドフォーラム特別講演[0:12:30~0:37:40]
 2011/04/22 に公開https://www.youtube.com/watch?v=Xk5oLfYjg9k
 
 歴史の忘却の彼方(かなた)に埋(うず)もれさせておくには惜(お)しいことでの、裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への否定さえも、のうのうと飄々(ひょうひょう)と公然と喝破(かっぱ)し続けていた熊澤天皇の存在そのものや、
 
     裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への
    否定さえも、のうのうと飄々(ひょうひょう)と公然と
    喝破(かっぱ)し続けていたことに対して内務省警保局・警察を
    始めとする大日本帝国政府・諸機関の動静(熊沢天皇の
    身辺調査など)や、
 
     更(さら)に戦後日本での、熊澤天皇一派と、裕仁天皇ら
    大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家麾下(きか)の日本国政府
    諸官公庁・諸機関との両者の活動(対決)
 
などの数々の“奇行”(足跡)の実録の活字文章版(本)と「はだしのゲン」画風・漫画版(本)を、推理小説のみならず政治小説や実録(ノンフィクション)も数多く手掛けられている森村誠一氏が執筆し上梓(じょうし)されるように要望することを、何が何でも、多くの人々にやって貰(もら)わねば!?
 
 
 
熊沢寛道
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)は日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
熊沢の主張によれば、熊沢家は足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際、西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ南朝の後亀山天皇の子孫で、南朝9代目天皇である熊野宮信雅王に始まる家で熊野宮の「熊」と奥州の地名・沢邑の「沢」をとって熊沢姓を名乗ったとある。彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている。
生涯[編集]
既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父熊沢大然(くまざわ ひろしか)に「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育ち、その父の死後、熊沢は南朝第118代天皇としてひそかに即位したという。1920年(大正9年)から父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰など)に送り続けていた。また、熊沢は1935年(昭和10年)前後で、葛尾天皇らと共に福島県双葉郡浪江町・大堀村辺りで後南朝の埋蔵金発掘をしている。
1945年(昭和20年)、名古屋市千種区内で雑貨商を営んでいた熊沢は、戦災で店を失い、廃業を余儀なくされる。同年、日本が連合国の占領下に入った後、11月にGHQのマッカーサー総司令官あてに請願書を送った。その嘆願書が丸の内郵船ビル総司令部翻訳課の担当中尉と親しい雑誌『ライフ』記者の目に止まった。
翌1946年(昭和21年)1月、アメリカの記者5名とGHQ将校が5時間取材し、その記事は『ライフ』、AP通信、ロイターなどで報道され、日本の新聞各社が彼を熊沢天皇と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった。彼に取り巻き利益を得ようと集まった支持者は、熊沢のために資金や公邸を提供した。なお、他に熊沢天皇と称する4名(そのほか熊沢天皇ではない南朝の天皇も数名)も現れた。
政府当局はこの頃、熊沢天皇の調査を行っているが、それは、天皇制批判の自由、言論の自由に対し、不敬罪の適用、天皇制護持を図る当局の態度を示すものであった。しかし、結局のところ熊沢に対して不敬罪の起訴は出来なかったが、その後、1946年(昭和21年)5月19日のプラカード事件では松島松太郎を不敬罪で起訴しており[2]、この頃は戦前の体制が残っていた事をよく示している。
勢いづいた熊沢は、1946年(昭和21年)5月政治団体「南朝奉戴国民同盟」を設立し、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。体制派の歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢天皇に次第に冷ややかになっていった。情勢を打開すべく、1947年(昭和22年)3月政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して[3]、党首として選挙で候補者を立てるが失敗する。その後、多くの側近、それに妻子までに熊沢は見捨てられた。
1951年(昭和26年)、東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)。
その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。
1966年(昭和41年)に東京の板橋病院で膵癌のため死去。
 
 
 
 『黒い墜落機(ファントム)』
 (角川書店・角川文庫、昭和53年(1978年)9月10日初版発行・平成元年(1990年)12月30日16版発行・平成7年(1995年)3月20日改版初版発行:森村誠一)
 -裏表紙・粗筋書(あらすじが)き-
 茨城県・百里基地より緊急発進の最新鋭ジェット戦闘機が南アルプスの「風巣」と言う集落近くの沢に墜落した。だが、自衛隊は事実を公表せず、塚本隊長が率いる「サルビア部隊」を派遣し、極秘に機体の撤収を図る。しかも墜落を知ることでの集落の老人たちの“抹消”を計画。村で民宿を経営する反町重介と恋人の水橋は、村を守るべく立ち上がったが・・・・。異色の政治推理小説!
 
 
 
 『黒い墜落機(ファントム)』
 (光文社・光文社文庫1991年10月20日初版1刷発行:森村誠一)
 -裏表紙・粗筋(あらすじ)書き-
 極秘訓練中の自衛隊機が、南アルプス山中に墜落した。付近に廃村同様の集落゛風巣(ふうす)”しかない。自衛隊は、この事故を公表せず、密かに精鋭のレインジャー部隊を送り込んだ。目的は、期待の撤収と全村虐殺である。そう黒い陰謀に気付いた民宿経営者・反町は、恋人と村を守るべく、武器もなく立ち上がった!
 自衛隊の持つことでの、もう一つの顔を暴く、政治小説(ポリティカル・フィクション)問題作。
 -389頁~393頁-
 解説-芳醇(ほうじゅん)な酒は、どのようにして生まれるか-
 森村「PF」の世界と方法
 下里正樹(ジャーナリスト)
 森村作品の多彩な一端を構成する作品群に、PF(ポリティカル・フィクション=政治小説)がある。「黒い墜落機(ファントム)」は、森村文学の比較的に早い時期に誕生したPFである。
 ヘリ2機に分乗したことでの48人の選抜レンジャー部隊=圧倒的な重装備と多勢を誇ることでのプロの殺し屋軍団の作戦に対し、民間人の絶望的な戦いが始まる。
 戦いの中で、民宿経営者の゛過去”が浮かび上がる。宿泊客は、それぞれに心に傷を負い、実生活にドロップアウト(落ちこぼれ)した敗残者ばかりである。
 いや、浮かび上がる物は、゛反乱”する側の事情ばかりではない。国家の暴力装置である「軍」の体質と、村ぐるみの生命を抹殺せねばならない事情も浮かび上がる。重装備と冷徹な指揮系統を持つ「軍」が、それゆえに内包する弱点も露(あら)わになる・・・・。
 もとより、これはPFである。フィクションである。しかし、読み進めるうちに、読者は1952年(昭和27年)に発生した「もく星号」事件と、奇怪な24時間事故現場隠蔽の謎や、1971年(昭和46年)の岩手県雫石(しずくいし)上空においての自衛隊機と民間機(全日空ボーイング727型機)の衝突惨事と、自衛隊側のレーダー航跡データへの不自然な工作や、更(さら)に最近では1988年(昭和63年)7月の海上自衛隊潜水艦「なだしお」と民間釣り船の衝突での、自衛隊側航海日誌の改竄(かいざん)など、現実に起きたことでの過去の事件の禍々(まがまが)しさを、小説のストーリーにオーバーラップさせ、不気味な圧迫感を覚えるのであろう。
 -394頁~395頁-
 1975年(昭和50年)に「黒い墜落機(ファントム)」で筆を執(と)った森村誠一氏は、2年後に自衛隊陸幕二部別班を彷彿(ほうふつ)させる秘密工作部隊を扱った「野性の証明」を書き、更(さら)に原子力開発の恐るべき実態を描(えが)いた「死の器」(1981年刊)、ウラジオストック港内への極秘対潜ソナー・ケーブル敷設作業と国家機密法(スパイ防止法)の相関を突いた「死海の伏流」(1986年刊)へと一連のPF作品(ポリティカル・フィクション=政治小説)を増幅させて行った。それの音調は、日本国首相の座を巡(めぐ)ることでの金権と陰謀をテーマにした「黒い神座(みくら)」(1988年刊)で高調に達した感がある。
 森村PF(ポリティカル・フィクション=政治小説)作品に共通することは、事前の精力的な事実調査と、綿密な題材研究である。例えば、「死の器」に登場する核燃料再処理工場を巡(めぐ)る一連経過には、現実の原子力行政の深部から出現した生データが反映している。また、「死海の伏流」冒頭に登場することでの、秘密ソナー・ケーブル敷設作戦は、かつて国会でも取り上げられ、各国駐日武官の耳目(じもく)を集めた最高軍事機密(トップシークレット)である。
 森村誠一氏の方法は、単に現存するマル秘情報の安易な引き写しではない。森村氏は、更(さら)に実地の調査を行なう。資金と人力を投入して、題材の周辺を徹底的に調べる。そして、集めた生データのエキスだけを樽(たる)に入れ、残ることでの殆(ほとん)どを捨てる。樽の中で、現実のエキスと作家の想像力が、ゆっくりと熟成し芳醇(ほうじゅん)な酒となることを待つ。こうして一連のPF(ポリティカル・フィクション=政治小説)が生まれるのである。
 遠くは「腐蝕の構造」(1972年刊、日本推理作家協会賞受賞)から始まった森村PF(ポリティカル・フィクション=政治小説)の流れは、国内外の激動期--1990年代に入って、一層に加速の度を強めて行くのであろう。殷々囂囂轟々(いんいんごうごう)と鳴ることでの、ナイアガラの滝へと飛瀑(ひばく)して行くのであろう。
 絶妙な題材と国際的な舞台を得て、壮大な「滝」の完成する日。私は固唾(かたず)を呑(の)む思いで「その日」を待ち望み、森村氏の剛腕と、PF(ポリティカル・フィクション=政治小説)水流の行方(ゆくえ)を見守っている。
 
 
 
【熊澤天皇の実録本の執筆を、何が何でも森村誠一氏に!】歴史の忘却の彼方(かなた)に埋(うず)もれさせておくには惜(お)しいことでの、裕仁天皇ら大室寅之祐(依然は寅吉)系天皇家の正統性への否定さえも、のうのうと飄々(ひょうひょう)と公然と喝破(かっぱ)し続けていた熊澤天皇の存在そのものや数々の“奇行”(足跡)の実録の活字文章版(本)と「はだしのゲン」画風・漫画版(本)を、推理小説のみならず政治小説や実録(ノンフィクション)も数多く手掛けられている森村誠一氏が執筆し上梓(じょうし)されるように要望することを、何が何でも、多くの人々にやって貰(もら)わねば!?
 
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